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ハワイ好きなら知っておきたいフラの歴史

ハワイ好きなら知っておきたいフラの歴史

私たち日本人に最も馴染み深いポリネシア文化といえば、世界一美しい踊りと言われるフラです。フラはハワイ語で「hula」と書きますが、[ダンス]という意味ですので、「フラダンス」では意味が重なってしまいますので注意してくださいね。
フラには、実際には、人の声(チャントや歌)やスムーズな身体のジェスチャーとしてのダンス、演奏、詠唱、歌唱のすべてが含まれています。フラが特徴的なのは、総合芸術であると同時に、伝統的で神聖な宗教行為でもあることです。
日本にも能楽という似た文化があります。能楽もフラも、単なるダンスや音楽の概念では捉えられないものなのです。
フラの起源は、神と自然に感謝を捧げる宗教的なものです。ハワイアンジュエリーの起源に通じる重要なハワイの文化なのです。
今回は、神秘的で、ハワイアンの重要な表現手段でもあるフラの歴史について紹介しましょう。

諸説あるフラの起源

太平洋の真中の美しい島ハワイには、明るい日差しと豊かな自然があり、人々は、その自然を神にたとえながら暮らし、共存していました。
フラの起源については諸説がありますが、古代のハワイは無文字社会だったため、フラの正確な起源は正確にはわからず、さまざまな神話などから窺い知ることしかできません。
また19世紀初頭には、アメリカのプロテスタント宣教師らによってフラが禁止されたため、多くの歴史が失われてしまったのです。
ハワイ人はマルケサス諸島やタヒチから渡って来ました。フラもまたそれらの地からポリネシア人が持ってきて、ハワイにおいて独特の発展を遂げ、今のような美しい踊りが確立されたのでしょう。

神と自然に感謝を捧げていた古代のフラ

古代ハワイでは、フラは、ハアア(Ha’a)と呼ばれていました。
ハアアは、古来、神に捧げる神聖な踊りでもありました。
ある伝説によれば、女神ラカがモロカイ島の聖地カアナにフラを生んだといいます。ラカは今もフラの守護神とみなされており、ラカを祀る祭壇のあるフラ・ハラウ(フラの学校)が多くあります。モロカイ島では、毎年5月にこのフラの誕生を祝い、「踊りの中心」を意味するカフラピコという祭りが開かれています。
別の伝説では、火山の女神ペレの荒い気性をなだめるために、ペレの妹のヒイアカが踊ったのが始まりだとされています。

また、文字を持たなかったハワイでは、ハアアには、儀式以上の意味があり、神への信仰、文化や生活様式などを後世に伝える意味があったとされています。大切なことはすべて祈りに込めてフラになりました。
人々は、すべてのものに精霊(マナ)が宿ると信じていました。
神様・自然への感謝の気持ちと祈りを大切にしていた証がフラなのです。
このため、フラは誰でも踊れるものではなく、選ばれた者だけが踊ることを許されるものでした。彼らは女神ラカを祀る寺院に住み込んで特訓を受け、踊りを習得したのです。

当時のハアアはメロディアスな音楽ではなく、男たちによる詠唱(チャント)を唱えられることで始まります。男たちがサメの皮でできたドラムやヒョウタンなどの楽器で伴奏でメレを歌い、そして女たちがそのメレを体で表現する、というものだったようです。その踊りはチャントの内容を体現する、パントマイムのようなもので、手の動きが虹や雨、花、風に揺れるヤシの木、波の動きなどを表し、一つの物語を構成していました。
女性たちは桑の木の皮を叩いて布状にしたタパを体に巻きつけ、男性もタパをふんどしのように着けていました。
今日、フラではレイやブレスレット、ネックレスなどを身に着けていますが、当時は、それらは女神ラカへ捧げるために祭壇に祭られていたそうです。

禁止されてしまったフラ

近代化・産業革命の嵐がヨーロッパを席捲していた1779年、英国人ジェームズ・クックの船団がにカウアイ島に上陸しました。ハワイはサンドイッチ諸島と名づけられ、交易の拠点となり、部族の島から国家への統一化が進み、ハワイ王朝が成立しました。
1820年、アメリカの宣教師たちは、自然を崇拝するフラを一神教であるキリストを脅かすものと断定し、異教の踊りとして禁止しました。当時の女王カアフマヌは、女神ラカを祭っていた祭壇を破壊しなければなりませんでした。
宣教師たちは「自然崇拝を意味するフラは野蛮でみだらなもの」と称し、フラだけでなく、サーフィンなどの伝統文化もまた、約50年間もの間姿を消してしまうことになったのです。

フラの禁止を解いたカラカウア大王

1848年、「グレート・マヘレ法」が施行され、ハワイの土地は白人たちのものになります。1893年にはリリウオカラニ女王はアメリカ人勢力に圧されて王位から退き、ハワイ王国は終わりを迎えたのです。
アメリカ準州となったハワイで、ハワイ人たちは行き場を失い、人々はハワイ語を捨て、ハワイ人とわかる姓さえ隠すようにせざるを得ませんでした。当時、フラは見向きもされない文化となり、一部のハワイ人たちの間で伝統を守られていたと言います。

そんな悲しい状況を救ったのが、ハワイ王朝第7代目、最後の王とされるデイヴィッド・カラカウア王でした。したそうです。

デイビッド・カラカウア大王(即位1974~1891年)は、陽気な王様(メリーモナーク)という異名をもつ王でしたが、カラカウアは1883年の即位式でハワイ伝統の儀式を行い、この時に、フラも王を讃える踊りとして公式の場で披露されました。
西洋の文化を取り入れ、華麗なドレスを着て歌い踊るフラは、ハワイの重要な文化を持続させるためのひとつの方法でした。
一説によれば、そこで踊られたフラは、笑顔で踊られながらも、その歌詞は宣教師への不満や文句だったそうです。笑顔を絶やさずに踊る現代のフラの起源は、そんなところにあるのかもしれません。
カラカウアは宮殿にお抱えのフラ・ダンサーを住まわせ、客を招いてはフラのパフォーマンスを楽しみ、フラを全面的にサポートしました。同時に、西洋のクラシック音楽やピアノがハワイに輸入され、ハワイに新しい音楽「ハワイアン・ミュージック」が生まれたのです。フラもまた、その音楽に合わせて踊るフラクイとして生まれ変わったのです。フラクイでは神聖なパフは避けられ、代わりに伝統的な楽器であるヒョウタン(イプ)が結びつけられました。

フラがハワイの誇りに

1960年代に入ると、アメリカでは、アフリカ系アメリカ人の人種差別を無くし完全な平等を求める公民権運動が盛んになりました。この影響から、ハワイでもハワイの伝統に誇りを持つ意識がフラへと向けられたのです。
1970年代、失われたハワイ人の文化と誇りを取り戻すハワイアン・ルネッサンス運動が起こりました。
ハワイの人々が大切な文化を守り、伝承するために、一般の人々もフラダンスを学ぶようになったのです。
すたれたハワイ語を甦らせるためのハワイ語の幼児教育も始まり、フラ人ロを増やす協議会が各地で行われるようになりました。協議会では人々が涙を流しながら、誇らしげにチャントし、踊ったそうです。このとき、フラはカヒコとアウアナに分けらました。
私たちが知っている、ハワイ文化としてのフラが伝統舞踊として位置づけられ、日の目を見るようになったのは、ほんの最近のことなのです。
ハワイ人たちはハワイ人であることに自信を取り戻しました。

二つのフラ、カヒコとアウアナ

フラカヒコは、古典的なフラ、宗教的なフラです。自然や神に対する礼拝を込めて詩を唱えながら踊るもので、宗教的行為としてマラエに奉納されることもあります。
カヒコに使用されるパフやイプを打ち流しながら、詠唱(メレ)が唱えられ、それらに合わせて、数十人の踊り手が儀式にのっとって踊りを繰り広げます。
カヒコは神や王に捧げるものなので、古代においては修行や訓練を行った選ばれた男性しか踊ることを許されていませんでした。
女性の化粧にも制約がありました。アクセサリーも身に付けてはいけなく、衣装もアウアナに比べるとシンプルです。

フラ・アウアナは、カラカウア大王が欧米の音楽を取り入れて創り出した新しい形式のフラです。アウアナは(Auana)は「正道をそれる」という意味のハワイ語です。
アウアナは、和声システムに基づくメレと、和音楽器を使用する点で、フラカヒコと異なります。ギターやウクレレなど美しい旋律のある楽器を使用して、優雅に踊られ、その衣装も色とりどりで美しく華やかです。
レパートリーも固定されておらず、新作も創られ続けています。主に男女の愛の要素を含み、その詩はいわゆるハワイアンソングになっています。
踊り手がムームーを着て、ウクレレの音と共にブルーハワイ調の音楽で表情豊かに踊るのが特徴です。
ハワイ観光でショーなどで目にするのは、ほとんどの場合、アウアナです。